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地元では“迷惑”そのものの聖火リレー

北京オリンピックの聖火リレーのうち、日本国内(長野県内)のランナーが発表されたと聞いた。
が、発表されたのは“著名人”のウチの“了承を得た”人だけだとか。
聖火ランナーを迎える長野の人たちはさぞやガッカリしたのでは?
出発点の勤労福祉センター跡地での“スタート”の儀式も、一般観光客が“ふらっと”入る事はできないとか。
リレー沿線の他の地点でも、折角著名人が走っているのにその姿を見るのは難しいような“警備”ぶり。

一般の市民や観光客が見ることが出来ないのなら、何のための聖火リレー?

聖火リレーを受け入れる長野商店街は、“聖火”目当ての観光客が目当てのハズ。
それが、“一般観光客はNG”というのであれば、“何のための聖火リレー?”と言う感じではないのだろうか?
いや、そもそも、“聖火”目当ての“観光客”排除するならば、聖火リレーの“セレモニー”的要素も否定されるんじゃないの?
聖火が(観光客を呼ぶ)“イベント”でも“セレモニー”でもなくなったら、長野の人たちにとっては、単に“迷惑”なだけなんじゃないの?
って言うか、はっきり言って“迷惑”そのもの。

改めて思うけど、参加者が身の危険を感じ、地域に迷惑をかけてまで“リレー”を実施する意義があるのだろうか?
聖火リレーの為の聖火リレーでしかないのにね。。。


っていうか。。。
正直言って、長野の聖火リレーに関しては、“実施する”ことを“バッカみたい”と思うのよ。
意義はないでしょ?

第1走者の星野監督はオリンピックの“当事者”であって、限りなく選手に近い立場。
そんな人は安直に聖火リレーを辞退できない。
また一方で、JOCやIOCは聖火ランナーの“身に危険がある”と感じている。
そういう“辞退”出来ない人を、ある意味“人質”にとっての聖火リレーになんの意義や意味があるというのだろうか?
聖火リレーには、選手や関係者の身の安全をないがしろにしてまで“人身御供”する意義があるのか?
私にはその意義は見出せないと言うか、解らないのよね。。。
その辺りをスッキリと説明してくれる人っていないのかしらね。。。?


あぁ、勿論、中国国内やオリンピックをよく知らない地域でオリンピック啓蒙の為に聖火リレーをする事には何ら異論を挟むつもりはないよ。
ただ、(平和と人類皆平等の象徴である)オリンピックを“中国国内で開くのは百万年早い”と思っている人が世界中にこんなに沢山居ると解った今では、聖火リレーは“反北京オリンピック”の啓蒙の機会ではあっても、中国が“平和国家”や、“人権尊重国家”である事の“宣伝”にはなりえないよ。。。


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