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ニートを生んだ“個性教育”

昨日の事だけど、先週の日経夕刊を整理していて思ったこと。
記事の中に「(今の世の)自分探しをしなければならない世の中は生きにくい」という1節があった。
論旨としては、運動会で徒競走でも手を繋いでゴールさせるような、ある意味“得意分野”を発揮できないような教育を受けてきた子供に、個性の発揮や“自分探し”って重荷だろうというものだった。
って、簡単に纏めすぎ?(^_^;

この記事が目に付いたのは、“まさしくそのとおり”と思ったに他ならない。


最近はよく“個性の時代”だとか、“個性を大事に”とか言われるけど、“個性”って何?
どうやって育てるの?

最近の学校では、競争で優劣をつけるのは良くないと言うと聞く。
で、徒競走などの順位がつく競技では、子供たちが手を繋いでゴールする学校もあるとか。
(これ日経の記事の受け売り。。。(^_^; )

その学校では、“走る”事が得意な子供の個性や得意の芽を摘んでいる事には目を瞑っているのよね?
走るのが得意な子供の“得意”を伸ばす事を否定しているのよね?
例えば、私の甥っ子は、運動会ではヒーローらしい。
見も知らないおばあちゃんが、「あの子(=私の甥っ子)は走るのが早い」と年に1度の運動会での彼の活躍を覚えていてくれている。
これって“個性”の発揮ではないの?
そんな“個性”の発揮の場のいちいちを摘んで、学校教育は、子供たちの、どんな“個性”を伸ばそうとしているの?
それって矛盾じゃないの?

“個性”を伸ばすというのは、ある意味“他人と比べて”優れた才能を伸ばすと言うに等しい。
勿論それがすべてではないけどね。
でも、他と比べて際立っている処を伸ばすのも個性教育であって、今の学校教育が行っているような、いや、社民党が推進するような自由気まま、我儘勝手をすき放題にさせる事が“個性教育”ではないと思うよ。
社民党党首の瑞穂チャンは、あるテレビ番組で「授業時間に授業を受けずに砂遊びする」ような事も“個性”と言ってのけたけど、これって“個性”ではないよね。
それを“個性”として認め“伸ばす”のであれば、法治国家である日本に於いて法を守らないのも“個性”と言って認めるに等しいのでは?
弁護士である瑞穂チャンはそこまで考えて言った言葉なのかな?

私は前提として、どんな個性の発揮にも“制約”はあると思っている。
そしてその制約の中で、“他人と比較して優れている”とか(その分野が)“好き”だというのが、伸ばすべき個性の条件なのではないかと思うのよね。。。
例えば、スリや詐欺の技術が優れていたとして、それが(伸ばすべき)“個性”ですか?という事ね。
スリや詐欺の技術に優れていたとしても、それを伸ばしてイイとは思えないよね。
やはり一定のルールの下、してイイ事としてはイケない事があって、してイイ事だけが伸ばすべき個性に判定されるでしょう?

もう一つは“競争”を経験しない人はonly oneにはなれないという事。
他のだれとも一緒ではないという事は、結構難しい事よ。
少し前のsmapの歌でonly oneを賛美した歌があったけど、onlyってどんな世界で?何と比べて?と思わない?
これって、one of them であることを賛美したのではなく、only one of themだよね。
だれも真似、追随できないonlyを目指すのであれば、それは“競争世界で勝ち抜く”以外の何者でもない。
あの曲が流行った頃、「あれは“勝ち組の歌”」と言った人がいたけど、あの歌はある意味勝った人が歌うから意味のある歌であって、負けている人が歌っても負け犬の遠吠えでしかない歌なのよね。。。


って、話は逸れたけど、学校時代に特別個性を創造するような教育を受けていないのに、社会に出るに当って、“個性を活かして”とか“自分にあった事”と言われるのはある意味可哀想というか、はっきり言って無理難題。
個性なんて他と比較して初めて実感すると同時に、自分のしたい事とできる事の違いも色々経験してみて初めて解る。
それに、“したい事”が必ずしも自分に向いているとも言えないしね。
私は今の仕事を“したい事”だとは思わないけど、ある意味“天職”、向いている仕事なんだろうと思う。
好き、嫌いは別として、仕事としては“向いている”もの(笑)
でも、この仕事って、最初から希望して就いたものではない、たまたま配属されただけ。
試行錯誤の経験も無いままに、“(自分の)したい事”を即効的に職業にすることを求められる人たちには同情するよ。
そういう意味でも、初めから“したい事”や“やりたい事”を成就する事を求められるニート君たちには同情するよ。
初めから失敗もなく職に就く事を求められるのだものね。
職に就きたくないと思うのも解る気がする。
まぁ、彼らはご両親に経済的余裕があって、“ニート”という特権階級を過ごせるのだろうから、君(=私)らのような下層階級からの“同情は要らん”というだろうけどね(笑)


それにしても、“自分探し”なんて言葉が、“生きる”という長期的なテーマとしてではなく、“就職”という即時的なテーマに求められるなんて、最近の若者君は可哀想だね。
就職を即時的と表現する事に違和感もあるかもしれないけど、それでもあわない、向かないと思えばやり直せばいい。
それに最近の就職って、職に就くというより、会社に入るという事。
仕事が向いていても、職場が向かないかもしれない。
就職を、やり直しの利かない事にしてしまわないほうがいいんじゃないの?

それに、自分探しだなんて、彼らのご両親が未だに行き着いていないかもしれないテーマに対する答えを、高々20年数年生きたかという若者君に求めるのはプレッシャーが大きすぎだと思うよ。
彼らに“生き様”で“個性”を示す事が出来居なかった大人達が、それを若い子供たちに社会人としてのスタートとも言える就職の時点で求めるというのものねぇ。。。
その大人の不見識にも呆れるし、若者クンたちの受けるプレッシャーも気の毒だと思うわ。

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