- 2009年6月 6日
- 03.旅行記
鎌倉の鶴岡八幡宮から源氏池を回って、お次は道なりに荏柄天神社。
天神社と言うだけに、ご祭神は菅原道真。
神社の案内には「福岡の大宰府天満宮、京都の北野天満宮と共に三天神社と称される古来の名社」とあった。
“古来”と言うのがキーワードか?
って、天神って、多くの関東人は、大宰府天満宮と北野天満宮の次の1つを湯島天神か亀戸天神のどちららかと感じるよね。。。
と思って、改めて縁起を読むと、「鎌倉大蔵の地に鎌倉幕府を開いた源頼朝は荏柄天神を鬼門の守護神と仰ぎ社殿を造立し、将軍は鎌倉幕府の尊社とした。「吾妻鏡」にはしばしば社名が出、盛時には日本三大天神の一つとして大宰府や北野天満宮に匹敵する天神社になったが、鎌倉の衰退と共に衰えていった。」とあった。
昔は大きな天神社だったのね。。。今の境内はそれほど大きくないけど、参道の長さを見ると創建当時の隆盛と格式の高さは見られるよ。
更に道なりに鎌倉宮を目指す。
この辺りはお屋敷が多いのね。。。お家を見ているだけでも楽しい(笑)
鎌倉宮は、名前を知っていはいたけど、訪れたのは今回が初めて。
鎌倉宮は、武士社会から政治を取り戻す建武の中興に功のあった後醍醐天皇の第三皇子の大塔宮護良(もりなが ~通常は「もりよし」と読まれるが鎌倉宮では「もりなが」と表記している)親王の遺志を後世に伝えることを目的として、護良親王が足利直義に幽閉されたこの場所に彼を祭神として明治2年(1869年)に明治天皇が創建した神社。
護良親王は父である後醍醐天皇を援けて吉野や熊野で鎌倉幕府討幕運動の中心として活躍し、1333年(元弘三年)に征夷大将軍になったが、その後の足利尊氏との対立により捕らえられて1334年(建武元年)に鎌倉に送られ、社殿の背後の土牢に幽閉されたという。
親王がご祭神の神社だけあって、本殿は神明造りの立派なものだった。
宝物殿の拝観が裏庭のアジサイの拝観を兼ねていた。
アジサイ目当てで宝物殿の拝観料を払って、初めて見られたのがこの本殿。
神々しく立派なものだった。
今日は、宝物殿よりアジサイの庭が“拝観”のメインと設定されていた。
私も素直にアジサイの庭を歩く。
何故だか判らないけど、“伊予の”なんとか。。。という山アジサイが色々展示(?)されていた。
雨で光が充分ではなかったので、写真はイマイチだったけど、とりあえずこんな感じ(^_^;
鎌倉宮の庭園を歩いていて紅葉の花を見かけた。
オートフォーカスの私のカメラでは、雨上がりで葉っぱがキラキラと輝いている今日のピントあわせが難しい?(笑)
中々ピントが合わなかったので、唯一あったのがこれ。
紅葉の花は、知らない人が見たら“花”って感じがしないかもね(^_^;
鎌倉宮の宝物館では、「歴史に興味がありますか?」と宮司さんに聞かれ、思わず「はい」と答えた。
多分、伊藤博文、東条平八郎、山本五十六などの署名がある書物などの展示物を、ガラスケース越に食い入る様に見ていた私を見かねたのだろうと思う。
で、宮司さんは展示されている“宝物”について説明をしてくれた。
筆跡が若々しく力強い巻物が護良親王の直筆で、明治時代に創立された鎌倉宮で1番古い宝物だと教えてくれた。
通常は非公開だけど、今だけ(虫干し?)特別に公開しいてるという。
いや、それにしても一緒に展示されている新田義貞の筆よりずっと力強い皇子の書。
流石に“征夷大将軍”の筆だね。って、彼が征夷大将軍になる前の22、3歳の頃の筆なのに、びっくりするぐらい太くシッカリとした“武士らしい”筆。
とっても、意外よ。
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